こんにちは、「ゆるりら」です。

日本で暮らしていると、「日本人であること」を強く意識する場面は、あまりありません。
日々の中では、性別や立場による違和感を覚えることはあっても、「人種」という言葉が、現実の出来事として迫ってくることは少なかったように思います。

ここからは、私個人の体験です。私が、旅の途中でふと「自分の立ち位置」を意識することになったのが、ピースボートでの生活でした。
船内は日本語が通じる環境が整えられていましたが、同時に、さまざまな言語や文化を持つ人たちが共に過ごす場所でもありました。

あるとき、ダンスの練習に参加しようとしたところ、その回は特定の言語で進行する時間だと知りました。
言葉の都合上、参加を控えるよう案内され、私はその場を離れました。

また別の日、ヨガのレッスンでも、使用する言語ごとにスペースが分かれており、移動をお願いされることがありました。
どちらの出来事も、誰かの悪意というより、「言葉を円滑に進めるための区分」だったのだと思います。

それでもそのとき、
(ああ、言葉や文化が違うと、居場所というものは、こんなふうに変わるのだな)
と、心に小さな波が立ちました。

私が経験したことは、決して強い差別と呼べるものではありません。
ただ、異なる環境に身を置いたことで、これまで意識せずにいた「安心」や「安全」「当たり前」に、改めて気づく機会になりました。

旅をしていると、その土地ごとに、日常のルールや空気の違いを感じます。
ヨーロッパを訪れたときも、日本とは異なる生活のリズムや、安全への意識の持ち方に触れることがありました。
それは良し悪しではなく、「文化の違い」として受け取るものだったように思います。

エジプトでは、現地の文化に敬意を払いつつ、自分自身を守るために、服装や振る舞いに気を配りました。
頭にスカーフを巻き、体の線が出ない服を選び、静かに街を歩きました。

旅は、遠くへ行くことだけが目的ではなく、
「自分がどんな前提の中で生きてきたのか」を、そっと教えてくれる時間なのだと感じています。

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