こんにちは「ゆるりら」です。
さて、私は自分の母親と二世帯住宅で同居しています。家に着くと母が出迎えてくれました。母はラインをやっていないし、こちらもギガも惜しいため、旅行中全く電話ができませんでした。夫君とラインで話しているときに、何度か「いたら代ってほしい。」と頼みましたが、留守なことが多く、本当に久しぶりです。笑顔で迎えてくれましたが、なんとなく変な感じ。私の旅行を心憎く思っていたのでしょうか。
母とのひととおりの話を終えると、母親の居間の方に夫君が来て、改まって
「ちょっと、座って。」と言うのです。母も神妙な顔です。
実は、と、切り出された話に、私はショックを受けました。旅行中に母が入院したのだそうです。それも、家で朝「苦しい」と、夫君に話をしてすぐに倒れ、彼が即座に救急車を呼び、病院に着いたところ「心筋梗塞」で、緊急手術を受けたのだそうです。血栓は下肢にもあり、その下肢の手術は運ばれた病院では難しいが「何とかやってみよう」と取り組んでくださり、下肢切断も免れたそうです。もともと足が痛いと良く言っていました。医者にも通っていました。それが血栓だった、その血栓が動いた、ということだったようです。
心筋は一部壊死したそうで、そのうえ足の血栓も一本しか通らなかったとのことですが、命はとりとめたそうです。
その後、もう一本の血栓を取るために転院手術を勧められたのに、本人は手術を嫌がったそうです。父方のいとこが説得してくれて、しばらくしてから遠い病院で再度手術、入院という事になったそうです。
その間、夫君が遠方の病院にも連れて行ってくれ、妹が母の身の回りのこまごまとしたことをやってくれたり、退院後のリハビリなどもついていってくれたそうです。夫君と妹が「姉ちゃんの楽しみにしていた旅行だから、黙っておこう。」と、話し合って、この日まで黙っていてくれたそうです。夫君や妹は仕事を何度も休んで対応してくれたそうです。地元にいる双子の娘も倒れた当日も来てくれて、遠方の手術の日の迎えなど何度も仕事を休んでくれたようです。東京の娘も二度も来てくれて、母の「ミイラ化したものも出てくる」ような冷蔵庫と台所を、妹と一緒に大掃除してくれたようです。
私はあまりの大ごとに、どこまで聞いた時にどう思ったのか、よくわからないまま、ショックで胸がつぶれそうな思いになりました。
それから、3週間が過ぎました。母は経過も良く、午前中のパートにも復帰して出かけられるようになっていました。私は、夫君の盆休み中は家の中のこと、彼の仕事が始まってからも父の遺品なども含め大掛かりな断捨離をし、遠方の子供たちが帰ってくるための準備や、家族バーベキューなど、楽しい行事が連続で、Noteに向かうことができませんでした。実は、書く気力を失ったのです。楽しく何かを書く気持ちになんて、到底なりませんでした。旅行?私だけが?みんなこんなに大変な思いをしていたのに、お土産どころじゃないです。
数日は、ご近所への挨拶もできませんでした。しかし、そうはいっても救急車で運ばれ、入院し、皆さんご丁寧にお見舞いも下さっているのですから、近所ぐらいには、あいさつに行かなければなりません。近所の奥さんたちも、「びっくりしたでしょう」と言われました。
Noteに何か残しておかないと、このまま私が母の病気に押しつぶされてしまいそうで、ようやく書き進めました。何しろ世界旅行に行くことも、母に言うのを一番ためらっていました。きっと、嫌味を言うか、引き留めるかだと思ったからです。家事はどうするのとか、夫君のご飯は作らないよ、とか。やはり「夫君のご飯は知らないよ。」と言われました。頼んでもいないのに。(※実際は、色々と作って差し入れしてくれてたみたいです。感謝!)退職ももっと早くしたかったけれど「定年まではやめるな」など、勝手な価値観で縛られてきましたし、子供時代のことを思うと(昔の夫婦ってみんなあんなだったのか)とにかく常に大げんかで、心の落ち着ける家庭ではなかったのです。ラテン系ともいえる激明るい性格で手のひらを返したように激昂する事もある母に、子供時代は疲れていました。母の機嫌にビクビクしていました。一人暮らしができるようになって、とても嬉しかったことを覚えています。しかし、母が孫の子育てを手伝って、私の仕事を支えてくれた恩もあります。父が他界した時の悲しみも襲ってきました。母があわや、と聞いて、(葬儀場はあそこで、あんなふうになって)というイメージが湧いてきました。不謹慎かもしれませんが、長女の立場ですからそれにともなう手続きを思い浮かべました。
夫君と妹は、必死の介護で母を助けてくれました。病院は家とは方向違いなのに、夫君は仕事帰りに毎日病院を覗いてくれたそうです。妹は義父の介護を8年もやっただけあって、入院中の買い物や、入用なものを手早く準備してくれたり、入院中に悪くなった歯を治すために、歯医者にも連絡して緊急で処置してもらったり、母に代わって医者に質問してくれたり、平日の昼間のリハビリに付き合ってくれたりと、本当に一生懸命助けてくれたそうです。明るく、情の厚い母は、妹をすごくかわいがっていましたし、夫君は優しい人で、二世帯住宅の母の家のゴミ出しまで一生懸命してくれるほどの、常日頃心のつながりがあったのです。私だけが、皆には知られない様に隠してきた母に感じているつきあいにくさ、が湧きだしました。
妹と夫君は、どちらも私より年下なのですけれど、ふたりとも私の旅行を私以上に大切に考えてくれました。私がどんなに楽しみにして行ったのか、私どんなに今まで一生懸命働いてきたのか、二人とも私のことがものすごく大好きで、私が張り切って一世一代の旅として出かけたことを自分のことのように喜んでくれました。実際は病院に行っていて疲れたでしょうに、私のラインに返事をしてくれたり、妹もふざけた私の写真に(お姉ちゃん、いい気なものだね。)と心で思いながらも、優しいお返事をくれたり。娘たちは(さすがに知らせないわけにはいかないんじゃない?)と、心配してくれたようですが、夫君と妹は二人で腹を決めて「ゆるりらには話さない」を、徹底してくれました。甥っ子まで心配して見舞ってくれたようですが、甥っ子もラインにそんなことは一切書いてきませんでした。命のかかった場面で、緊張していたと思います。妹も私が帰国した途端、ホッとして寝込んでいました。よほど大変だったのでしょう。
私は自分のブログ(yururira.net)を持っていまして、そちらも続けたいのですが、旅行中は電波の制約で続けることができませんでした。
帰国後は、そちらも続けて書いていきたいと思っていたのですが、帰ってから一切向かえませんでした。驚いた、びっくりした、ショックだった、どの言葉もぴったりなのに、少しずれている。生きていてくれてありがとう、救急を呼んでくれた夫君ありがとう、執刀してくださったお医者さんありがとう、全力で助けてくれた妹ありがとう。ありがたすぎて、どうやったらお礼ができるかわからないくらい、どーっと考え込んでいる状態の、3週間でした。母を愛している半面、常に気兼ねをしていた自分の心を見せられました。アフリカの空の上で父を探しましたが、いる気配がなかったのは母の緊急時に助けに行っていたからかもしれません。(みんなは、あのお父さんはアフリカなんかにいないよ、と、笑っていました。)
やはり、107日は長いですね。

