こんにちは、「ゆるりら」です。
本日は、近隣の方のお葬式に参列しました。その方と直接お話をしたことはなかったのですが、お孫さんと我が子の年齢が近く、ご縁のある方でした。お葬式ではお孫さん方も参列しており、立派な青年、美しい娘さんに成長されていて、年月の過ぎるのが早いと感じました。亡くなったおじいさんも、こんな素晴らしいお孫さんに囲まれて旅立たれたのですから、立派な人生を歩まれたことがよくわかりました。
以前、駅伝で有名な青山学院大学の原監督のお話を聞いたことがあります。原さんは、現代の若者を「とても心優しく、頑張る素晴らしい子たち」と表現していました。そんな素晴らしい大学生たちが大人になる時、それは地元のおじいさん、おばあさんが亡くなった時だとおっしゃっていました。現代の子供たちは、親や祖父母に大切に育てられ、幸せな子供時代を過ごしてきた子たちばかりです。その子たちが一皮むける時、大人になる時が、祖父母の「死」と直面した時だというのです。
私の子供も、大学生の時に「ゆるりら」の父、つまりおじいさんの死と直面しました。その話は別の機会にお話ししたいですが、「人は死ぬ」という当たり前でありながらも大きな人生の命題に触れる機会になったようでした。私自身も、大好きだったおばあちゃんの死は、子供心に大きな喪失感と、命について考えさせられる機会でした。
「ゆるりら」は、心穏やかにその日を迎えられるかどうか。じたばたするのかもしれないし、「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と後悔しているかもしれない。そのような考え事ができる能力があれば、まだ頭はシャッキリしているのだから、幸せかもしれません。そういう判断もできず、周りに迷惑ばかりかけるおばあちゃんになっているかもしれない。それでも、子供たちには感謝しているでしょうし、泣いている子を置いて逃げるように仕事に行っていた日々を懺悔しているかもしれません。いや、「ゆるりら」は、泣いている子供を置いて仕事に行った日々を今でも謝っています。
どんな最期かはわかりませんが、「ゆるりら」自身の順番で言えば、子供たちがきっと最期の事務的な手続きはしっかりと行ってくれると思います。葬式だって、あれをしてくれ、これは嫌だと言ったところで、もう自分は死んでいるのだから、どうでもよいではありませんか。生きている若い者が良いようにやってくれたらそれでいいです。
ただ、きれいごとではなく、最期に父がこれを言い残してくれていて判断ができて良かったと言えることは、「延命治療について」です。がんや事故などとは違う病気の場合、胃ろうなどの延命治療を「望む・望まない」は子供には絶対に決定ができません。いや、子供(ゆるりらの場合)は何が何でも「延命」に全振りしてしまいます。父の場合は、母とともに、一切の延命治療は望まないという意思を、自分の言葉でハッキリと残していてくれたおかげで、迷うことがありませんでした。
「ゆるりら」サロンでは、お年寄りの緩和ケアも行いたいと思います。近所であれば訪問もしたいと思います。サロンの開設はまだまだ先ですし、そもそも夢に終わるかもしれません。今、あなたがお父さん、お母さんの介護でお疲れの時は、ご自身の体調を第一に、無理せずケアマネージャーさんともよく話し合って、介護する人にとって良い介護を目指してください。おひとりで責務を負って疲れることのないように。