こんにちは、ゆるりらです。
最近、ある人に紹介された本『百歳の力』という篠田桃紅さんの本があります。前衛的な美術家の方です。映画監督の篠田正浩さんがご親戚で、芸術家の血筋の方なのですね。まだ拝読していないのですが、その本の帯のお写真を見て、その美しさにハッとしました。「常識の世界に生きなかったから、長生きできた。」「人生というものを、トシで決めたことはない。」「美とは相反する両極を持つこと。そこに一切がある」など、さすがは芸術家だと思いました。
「ゆるりら」の心は一気に(自分が100歳になった時、いったい何に感謝しているのだろう)と、100歳になった自分を想像していました。その時、「きっと母に感謝する」と感じました。ゆるりらが1歳になったばかりの頃、今で言うノロウイルス感染症のような病気で入院し、医師から「この子はもう助かりません」と言われたそうです。両親はそれでも必死に看病し、若くて貧しいにも関わらず個室に入れて、何とか命を救おうとしてくれました。「ゆるりら」は、その時の様子をよく思い出します。病室内の映像が見えます。広い部屋でテレビがありました。段々と自分の視点が持ち上がって、部屋の上空から見ていました。
相撲好きの母にその話をすると、「あ、それって死んでるね。幽体離脱?」なんて軽く言っていました。しかし、実際は父も母も祖母も必死で看病をしてくれました。世の中のことが何もわからない若い母は、美しく張りのある肌で必死に抱き寄せ、おむつの取り換えやただれた肌に薬を塗ってくれました。100歳の私は、その時の父、母、祖母に感謝していると思います。涙があふれてきました。
きっと、「ゆるりら」はその時一度死んでいたように思います。あの世に行こうとしたら、「ゆるりら」の子供たちに押し返されたように感じました。「まだこっち(あの世)に来てはダメ」と。すべては想像ですので一笑に付していただいて良いのですが、今の「ゆるりら」を愛して守ってくれる子供たちが、その時はまだあちら(あの世)の世界にいて、押し返してくれたのだとイメージできました。
その後、命はとりとめたものの、当時の医学ではなかなか全回復とはいかず、体が弱いままでした。「死ぬはずだった」という気持ちは幼児の頃からずっと持ち続けていました。小学2年生になった時、「おかしいな。なぜ2年生になったのか。死ぬはずだったのに」と強く不思議に思った記憶があります。また、幼児の頃から「無」という漢字が頭に浮かび、どうやったら「無」になれるのか、そんなことを考えながらぼんやり登校していました。
そんな弱々しい幼少期を過ごしたゆるりらですが、元気な子供たちを産み、今まで人並みに生きてきました。もしも100歳まで生きて、考える能力が残っていたら、その時には小さな赤ちゃんだった私の命を必死に守ってくれた父母、祖母に感謝するに違いないと思ったとき、涙があふれてきました。貧しい時代、父が稼いだすべてを入院費に使い、母は「この子が死ぬかもしれない」と寝ることもできずに看病してくれました。小さな赤ちゃんは毎日太い注射をする医師が怖くて、両親しかすがるものがありませんでした。母が大好きでした。100歳になった時、ありがとうと言いたい両親はもうすでに居ないことでしょう。両親のその後の育て方や生き方に多少問題があったとしても、この親で良かったと思います。死にかけた赤ちゃんを助けようと二人で力を合わせ、全身全霊、使えるお金をすべて使って最新医療を施してくれた若い二人の健気さに、自分のことながらドラマを見ているようで涙があふれてきます。
「ゆるりら」サロンは、そんな父が建ててくれた家です。本当に開業できるかは、今はただ夢のように考えています。現実にならなくても、このブログで若かった二人のことを書いて誰かに読んでいただけたら、少しでも感謝が形になったかなと考えます。