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広島へ旅行に行ってきました。いつでも行けると思いながらも、なかなか機会がなく、この年になって初めて訪れました。

定番の「厳島神社」に参拝。外国人観光客がこんなにも多いとは、本当に驚きました。推古天皇の時代に創建され、平清盛が社殿を造営したという厳島神社は、日本人なら誰でも一度は訪れたことがある有名な神社です。 訪れた時、神社の空気はとても親しみやすく、優しさに包まれているように感じました。自然と感謝の気持ちが湧き上がり、今日まで自分を守ってくださったこと、今日ここに来られたこと、そして家族が幸せであることに対してお礼を述べ、手を合わせました。

翌日は早朝から、原爆資料館と原爆ドームに行きました。我々の世代は、子供の頃から戦争について身近に見聞きしてきましたが、特に原爆に対する恐怖と悲惨さから目を背けがちでした。『はだしのゲン』のような作品も避け、歳を重ねてしまいました。テレビドラマにも戦争を題材にしたものが多く、戦時中の厳しい生活や言論統制、悲しい徴兵など、苦しく悲しい物語ばかりで、直視するのが辛かったのです。

沖縄に旅行した時も、沖縄戦の記録に触れ、「どうしてこうなったのか」と深く苦しんだ記憶があります。「沖縄の時にやめておけば、広島はこうはならなかったのに」という単純な思いがありました。また、小学生の時から「なぜ戦争は止められなかったのか」という疑問が解決されないまま、「戦争中は辛かった」「何も物がなかった」「大切な人が戦死した」という話だけが強調されることに、理不尽さを感じていました。しかし、子供の力ではなかなかその答えにたどり着けませんでした。権力者や有力者の中には、具体的な話を避けたかった人もいたのでしょう。

資料館に展示されている資料や絵は、どこかで見たことのあるものばかりでした。おそらくテレビなどで一瞬でも目にし、それが心に深く刻まれていたのでしょう。原爆の熱線で目が溶け、溶けた目の玉を手で受け止めたという絵は、小学生の頃に聞いてショックを受けたものそのものでした。 今の年齢になると、子供を失う悲しさ、築いた財産である家屋を失う辛さ、夫を戦地に送る苦しさなど、失いたくないものが増え、広島の方々の苦しみを思うと胸が締め付けられる思いです。今できることは「鎮魂」しかありません。どの資料にも手を合わせ、「安らかに」と祈りを込めて参りました。

呉にも足を延ばし、大和ミュージアムを訪れました。大和が撃沈された時、「もうやめた」と言ってくれていたら、広島で多くの人々がドロドロに焼け焦げることも、川が死体で埋まることもなかったかもしれない。いや、原爆資料館で見たとおり、アメリカは多大な資金を投じて原爆を開発した以上、どこかで実際に使用せずにはいられなかったのだろう。そんな思いが胸を締めつけます。

ミュージアムでは「山﨑貴の世界特別展」が開催されていたのですが、参観する気持ちにはなれませんでした。『永遠の0』など心を揺さぶられた映画を何度も劇場で見たほどなのに、今回は原爆資料館での体験があまりに重く、山﨑監督の世界に浸る余裕がありませんでした。

資料の中には、家族に宛てた手紙もあり、特に病身の妻に宛てた手紙が心に残りました。「体を大切に、重いものを持たないように」「遠慮せず親に何でも話すこと。年寄りはそういうことを言われると喜ぶものだ」「気に病まず、広い心で」といった内容でした。当時の時代背景を考えると、嫁は親には逆らわず、できるだけ働き、気を利かせて生きるという考えが主流だったでしょう。それにもかかわらず、この手紙には近代的な考え方が表れており、妻への愛情が感じられました。親が間接的に手紙を読んでくれることにも配慮した長文だったのでしょう。この手紙を書いた方も、大切な命を失った一人です。彼の命に対しても、精一杯手を合わせてきました。

さて、旅行中に気づいたことがあります。外国人の方々と目が合うと、男女問わず、相手が微笑みかけてくれるのです。なぜかわかりませんが、もしかすると自分が微笑んでいたからかもしれません。エスカレーターでのすれ違い、電車の中、宮島、道路など、どこであってもふと目が合った外国の方が微笑んでくれました。それがささやかな心の交流になりました。小さなことですが「ゆるりら」ができる鎮魂と世界平和の旅となりました。

合掌

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